『結婚者の手記』室生犀星/人生から鼻毛

  室生犀星は正直すぎる、と思う。金沢で私生児として生まれてすぐ養子に出され、高等小学校を中退したあとは裁判所に勤めながら詩を発表。自分の生まれの複雑さと容貌の醜さに終生コンプレックスを抱きつづけた作家、と書くとそれだけで尖った人物をイメージしそうになるけれど、実際の文章の感触はだいぶんちがう。たしかに繊細な言葉が積みかさねられてはいるものの、なんというか、全体的に、ちょっとまぬけなのだ。

 いませんか本人は真剣なんだけど傍から見てるとそっちじゃないってなる人。ばっちり髪型をきめてるのにTシャツの英語が変みたいな。全身コーディネートしてるけどそもそも季節感あってないみたいな。わたしは比較的そういう人間です。これはなにかというと「常に人生からちょっと鼻毛が出てる」人種です。どんなに立派なことを言おうと、失恋して孤独に陥ろうと、いやでもあの人鼻毛出てるよね……ってかんじで様にならない。

 室生犀星が結婚したのは二十九歳で、相手は自分の読者だった。『結婚者の手記』には、犀星が結婚をして妻と一緒に暮らすようになってからの日々が綴られている。曰くコンプレックスが強すぎて「ただ一人の清い女性をラバアに持つことができなかった」犀星の結婚に対するあこがれは強く、はじめて夫婦ふたりで買い物に出かけ、おしるこを食べるときの描写なんてムズキュンしてしょうがない。

「も一つやんなさい」

 というと妻もすきならしかった。つつましそうにおつゆを吸っているさまが、いつかの女をおもわせた。ひとが見ていると仕合せに見えるにちがいないと感じた。そとは寒かったが賑やかであった。深深と黒い毛皮の襟巻きをあたたかそうに、ほそい顎にうずめている彼女は、その私よりも一寸ほど高いせなかをすこしまげていた。やっと気がつくと帯の工合で高まっていることがわかった。男同士の荒い散歩ばかりしていた私には、こんなことまでいちいち珍らしかった。ただ、私は「何事もゆめのように」と心でいつも呟いた。

(『結婚者の手記』第一章 p.23)

  こんな毎日がいつまでも続くかと思いきや、時が経つにつれて犀星の内向性や自信のなさ、剥き身のプライドが家庭生活にもあらわれはじめる。昔の男から貰った手紙はないかと妻の留守中に引き出しをを探ったり(結局見つからなかったのだけど、それはそれでがっかりする)、犬と妻の仲がいいのに嫉妬して無理やり犬を押さえつける。猫は殴るし妻と言い合いになったら皿やら壷やら片っ端から割りはじめる。酷い。酷いとしか言いようがないのだけれども、本人は至って真剣なのだ。妻のよろこぶことをしてやろうと思い、「何事もゆめのように」ある小さな家庭を守りたいと思い、なにより妻から愛されたいと思っているのにこうなるのだ。

私が十年の暗黒的生活に、一人の恋人を見つけ得なかったのは、あまりに自分の容貌の峻酷であるためと、私自らがそれを知覚しているためであった。——私はそれらの苦しみが今たえまなく心に往来してきて、一つ一つ私の耳にささやくことをかんじた。

「僕のようなもののところへ来たお前はほんとに気の毒だ。」

と私はひとり言のように言った。妻はあわてて、

「勿体ないことを仰らないで下さいまし。わたし、もう出来るだけのことをしてあげますわ。」

 と持ち前の明るい言葉で言った。一人が暗くても一人が明るければいいのだ。

(『結婚者の手記』第一章 p.50)

  「一人が明るければいいのだ」って勝手に納得しているけれども、これは手紙を漁ったり犬に嫉妬したあとの台詞だ。妻は貧しい中で生活のやりくりをしているうえ、子どもみたいな行動にもつき合ってあげているのに、夫の頭は詩的な悩みでいっぱいいっぱい。青白い顔でお前は気の毒だとか言われても知らんがなである。これがたとえば太宰ならもっと巧く書くんじゃないかと思う。本音を組み替えて、人に見せられるていどの鬱屈だけを綺麗に見せる。だからどんなダメ男の話でも見栄えがよくって共感しやすい。それなのに犀星は真っ正直なものだから、自分のダメさを無防備に開陳しちゃうのだ。これが人生から鼻毛が出てるタイプの人間だ。この状況で奥さんがほんとうに明るいわけないって!

 そんな人間の結婚生活がどういうなりゆきを迎えるか。ラストの描写はまぬけさと美しさが共存するたいへん味わいぶかいものになっているのでぜひ読んでいただきたいのだけれども、ここまで書いておいて室生犀星が好きか嫌いかと訊かれればわたしは迷わず好きだと答える。いいじゃないちょっと鼻毛の出た人生。妻の気持ちがわからないとか、結婚生活がうまくいかないと思っている人も、犀星を読んでさまざまのことを「しょうがないなー」と反省したり笑ったりしてくれればいいと思う。