『綿の国星』大島弓子/ポエムはどこへ行ったのか

綿の国星 (第1巻) (白泉社文庫)

綿の国星 (第1巻) (白泉社文庫)

 

  大島弓子については世代がずれているからかよく知らない。ただいろいろなところで言及されて、知らないのはモグリ、みたいな扱いをされていることだけ知っている。それじたいより先に周辺の情報を嗅ぎとって、わかったような気になっているものはたくさんある。その山をすこしでも解消したくて読んでみたのだけれど、やはり前情報が入りすぎていたのか「ふつうに良いかも」というぼんやりした感想になってしまった。読むほうの年齢の問題もありそうだ。

 読みながら考えていたのは、「そういえばいまの子ってポエムとか書くんだろうか」ということだった。詩でもモノローグでもなく、ポエム。

おやすみ

なさい

時夫 二人

いっしょに

お魚の

すり身で

できた

こんぺい

とうの

お星さまと

えびいり

おこのみやきの

お月様の間を

にぼしの頭を

カリカリたべながら

飛んでゆく夢を

みられますように 

(『綿の国星』第1巻 p.30)

  これである。ポエム。

 『綿の国星』の主人公は人間になりたい猫の子ども・チビ猫(人間には赤んぼうから人間のものと、猫から変身して人間になるものの二種類があると思っている)で、女の子で、じぶんを拾ってくれた飼い主の時夫のことがすき。むじゃきで純粋だけど、気まぐれで、ちょっとわがまま。設定じたい、世界観じたいからしてほぼすべて「ポエム的なもの」で構成されている。ポエムとはなにか。大塚英志は「少女の原初的かつ私的な表現手段」と言ったけれど、それはあくまで外部からの定義であるから、『綿の国星』にただよう「ポエム的なもの」を説明するにはすこし足りない気がする。

 『綿の国星』は連作短編になっていて、それぞれに事情のちがう猫や人間が登場しては退場していく。読者はチビ猫の視点をつうじてかれらとかかわり、ひとつの町の中でうつり変わる景色をみる。チビ猫はたくさんのものを見るかわり、「見られる」ことには無頓着だ。人間の女の子のようにふるまいながら、好奇心がみちびけば牙をむいて生魚を穫ることに命を懸けるし、泥まみれにもなる。そのことで時夫や家族に叱られると拗ねるし落ちこむけれど、反省することはない。自意識がうすく、社会的な成長をしない。チビ猫はチビ猫のまま周囲とかかわり、女や母といった役割を負わない。とうぜん、学生や会社員という役割も。

わたし

ほんとに

だれにも

まけない

美しいいい猫

になれる?

 

なれるとも

保証するぜ 

(『綿の国星』第1巻 p.73)

  唯一チビ猫を雌としてみるラフィエルは、あんたは特別なんだときらびやかな未来を呈示する。ピンチのときは助けてくれる。なにも要求することなく待っていてくれる。だからチビ猫は愛情を食みながら子どものままでいられる。ここは女の子の楽園だと思う。「ポエム的なもの」は、世界にたいする好奇心を自覚してから、見られる性・客体としての自分自身に気づくまでのごくみじかいあいだにだけ存在する、幸福なかくれ家のことかもしれない。そこでは批評や共感も排除される。わたしのためだけの、わたしによる言葉。

 最近ポエムって見かけなくなったなーと思うのは必然で(ブラック企業ポエムみたいなものはあったけれど)、データベースとSNSの時代に自分だけのかくれ家をみつけることはむずかしい。大島弓子が読まれていた時代より、今の中高生のほうがずっと「見られる」ことに意識的なのだろうと思う。大学生くらいの子と話してもずいぶん醒めているというか、視点がメタ化しているのだと驚かされたりする。「ポエム」のあとに「www」をつけないと落ちつかない気持ちはわたしにもよくわかる。

 それならばやがてポエムになるはずだった彼女たちの感性というのはどこへ行ったのだろう。インスタにきらきらしたものをアップしてTwitterの裏垢で愚痴って、そういうやり取りの中に霧消しているんだろうか。感性じたいが時代と環境の産物だったのか、それともだれにもみつかることのない日記や手帳の中で、いまも2017年のチビ猫は生きているんだろうか。