『こちらあみ子』今村夏子/つながりの不全

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

  子どものことをよくみている。電車の中などで、あんまりじっくりみても不審がられるから、主には耳に意識を留めおいてそこでみる。かれらはたいてい突拍子がない。ある子どもは何事かをこわい、こわいと泣いて母親に「きらきら星」をうたってほしいとせがんでいた。母親が周りの目を気にしながらちいさくうたいはじめると、それまで怯えていたのがうそのようにまどろんだ。またある子どもは背すじをのばしたまま大声でじぶんの名前と幼稚園の名称をくりかえし、母親にたいしてすごいーすごいーと訊いたかと思うと履いていた靴をとつぜん、ぼろん、と投げた。

 子どもが大人になるのはたいへんなことだ、と思う。わたしはいままで「きらきら星」のうたを鼻水が出るまで求めたり、靴を投げとばすほどダイレクトかつ身体的にみずからの自尊心を表明する大人に出逢ったことがない。なぜなら、大人は周囲にあわせてチューニングするすべを知っているからだ。電車の中で「きらきら星」が聴きたいとおもったらiPhoneにそっとイヤホンを挿しこむし、自尊心はSNSにほんのりアップロードする程度でまぎらわす。チューニングミスが起きたときの気まずさはその場しのぎに誤魔化すか、なかったことにする。ほかの人のそれも、なかったことにしてあげる。大人のつながりは神経質な目くばせのうえに成りたっていて、かれらがそうなるまでのあいだ、身のうえに起きるだろう痛みの多さを思うと気が遠くなる。周囲にあわせることを学ぶのは、親のためでも社会のためでもなく、流れに逆らってじぶんの身が傷つくのを避けるためだ。

 『こちらあみ子』に出てくるあみ子には痛みがわからない。じぶんの身に痛みが起こってもそれを痛いとか、つらいと感じることがない(予感することはあっても)。だからあみ子は「大人」になれない。

「もうちょいで消えそうなんじゃけどねえ」あきらめきれなくて、あみ子は腕に力をこめて傷を何度もこすり続けた。小学一年生のあみ子に読むことができたのは自分の名前の部分だけで、その下、馬鹿という字は読めなかった。父に訊いてみたけれど、父も指先で自分のメガネをずり上げながら、「さあわからん」と言っていた。 (『こちらあみ子』p.16) 

 小学一年生の時点では未だかわいらしく思えるあみ子の特性も、周囲が成長するにしたがって不穏さを帯びる。

「ストップ! それ田中先輩の妹だって」

 その一声で、あみ子を囲む女の子たちの足の動きがとまった。蹴るのをやめて、急にやさしい声をだした。「ごめんね、違うんよ」「知らんかったんよ」「全然似てないんですね」「痛かった? 痛くはなかったじゃろ。そんなに痛くはなかったじゃろ」うん、と頷くと、「田中先輩に言わんといてね」と言いながら、全員が小さく手を振りながら走り去って行った。 (『こちらあみ子』p.64)

 「ばか。しっかりせえよ。ええか、去年まではおまえのアニキにびびって、みんな遠慮しとったけど、アニキおらんかったら、おまえなんか指でプチッてやられて終わりよ。あんまり学校こんし、きたと思ったらくさいし。まじで、いつか、絶対やられる。いやじゃろ」

「ああ」 (『こちらあみ子』p.73)

  周囲が痛いだろう、いやだろうと思うこともあみ子には平気だ。そのかわり、あみ子がいやだ、こわいと思うことはだれにもわかってもらえない。三歳の子どもが見えないものをこわいと言えば「きらきら星」をうたってくれる大人はいる。七歳ならしっかりしなさいと叱られるかもしれない。でも十五歳になるとだれも相手をしなくなる。三十歳なら遠巻きにやさしくされてしまうんじゃないか。想像することはできても、それがなぜなのか理屈で説明することはむずかしい。周囲とちがう感性をもつのは悪いことではない。けど不都合だ。善悪に理屈をつけることはできるけれど、不都合さに至る筋みちはそれよりずっと複雑に入り組んでいる。

 痛みの感性がひととちがうということは、ひとの痛みがわからない、ということでもある。あみ子の不都合な言動に周囲の人間は困惑し、傷ついてつき放す。そうしないとじぶんを守ることができないからだ。暴力にうったえること、気持ち悪いという言葉をつかうことは批判されるべき行為とされているし、実際そのとおりなのだけれど、この小説にはそうすることでしか生きのびられないゆき詰まりまで書かれている。はじめから他人を傷つけたいと思う人間は多くない。でも話しあいで問題の根本が解決することなんてほとんどない。やさしさは、往々にして余裕からしか生まれない。

「好きじゃ」

「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。

「好きじゃ」

「殺す」のり君がもう一度言った。

「好きじゃ」

「殺す」

「のり君好きじゃ」

「殺す」は、全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。(『こちらあみ子』p.102-103)

  それなりに大人として生きている人びとが恋愛や家族関係に悩むのは、親密さのなかでついチューニングが緩んでしまうからじゃないかと思う。相手の都合や空気を読む以上に、伝えたい、わかってほしいと思うじぶんの気持ちに直面したとき、たいていの人は大人でいられなくなる。命中しない言葉をぶつけ、わかりあえると思っていた痛みが結局じぶんのものでしかないことを知ったりする。あみ子は「かわった子」ではあるけれど、大人も、大人になりかけている子どももみんな、ほんとうは「かわった子」なのだ。その事実をさらけ出して孤独になるのがおそろしいから、涼しい顔をして満員電車に乗ってみるなどしているのだ。『こちらあみ子』はそういう、ふつうの大人が目をそむけてなかったことにしているおそろしさについての話だ。文庫の背表紙には「純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視点で鮮やかに描き」なんて書いてあるけれど、梗概からイメージされる(大人にとって都合のいい)鮮やかさなんてどこにもない。

 これがデビュー作、かつ三島賞受賞という今村夏子のすさまじさは、テーマの選択のしかた、表現のしかたよりも、そうしたことをいっさい企図せず書けてしまっているところのように思う。じぶんの感性を信じるあまり周囲から遠ざけられる子ども、なんて、うっかりするといくらでもいやらしくなる。あみ子に大人の思う純粋さを仮託させてしまう。でも今村夏子はそうしない。あみ子がそこにいて、考えて、生きているそのことだけを書く。文庫版に収録されている他の二篇『ピクニック』『チズさん』においてもその手つきは一貫している。いままでにいなかった作家だと思う(作家的資質と相反するものをもっていないと、こんなものは書けない気がする)。

星の子

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