『人工知能の核心』羽生善治/文系が人工知能について(がんばって)考えるその1

人工知能の核心 (NHK出版新書 511)

人工知能の核心 (NHK出版新書 511)

 

 先日放送のNHKスペシャルにわかりやすく影響を受けているNHKスペシャルは数ヶ月に一度おそろしいほどのキラーコンテンツを繰り出してきますね。あんたさすがだよ国営放送。視聴後、人工知能についてざっと概要を捉えることのできる入門書はないかしらとAmazonを探ったものの、おそらく今バズっているテーマだからか玉石混淆のようで適当なものを見つけられず。TVで見た羽生さんの人工知能に対する視点がシンプルかつ丁寧だったので、ひとまずこちらを購入することに。

 わたしはアナログを愛する文系人間で、プログラミングとか、そういうことにはまったく疎い。人工知能と聞いて思いうかべるのは、いまでもドラクエ(クリフトがザラキ連発するやつ)とシーマン(話しかけてもぜんぜん反応してくれないやつ)だ。アルファ碁や電王戦でコンピュータが人間に勝ったというニュースは知っていたけれど、それ以外の分野でも人工知能が高度化・精緻化し、ビジネスや生活の現場に組みこまれているという実感は「なんとなくそうらしい」ていどにしか持っていなかった。

 本の中では触れられていなかったけれど、自分の理解のために、まずは「人工知能ってそもそもなんなのか」を簡単に整理したい。以下は人工知能学会のサイトに掲載されているFAQから引用したものだ。

Q.人工知能とは何でしょうか?
A. 知的な機械,特に,知的なコンピュータプログラムを作る科学と技術です.人の知能を理解するためにコンピュータを使うことと関係がありますが,自然界の生物が行っている知的手段だけに研究対象を限定することはありません.
Q. では,知能とは何でしょうか?
A. 知能とは,実際の目標を達成する能力の計算的な部分です.人間,動物,そして機械には,種類や水準がさまざまな知能があります.

人工知能のFAQ(https://www.ai-gakkai.or.jp/whatsai/AIfaq.html

  なにかを言っているようでなにも答えていないような回答だけれども、じっさいに人工知能の定義は分野や研究者によってまちまちで、これがあれば人工知能だといえるものではないようだ。*1なので室内温度を感知して自動運転するエアコンなども「人工知能」ではあるのだけれど、この本の中では、予めデータと評価関数を与えれば「自ら学習し、推論を行う」ことのできるプログラムにたいして「人工知能」という言葉が使われている。*2

 ここ数年で人工知能が大いに発展した要因は三つあると羽生さんは言う。「ビッグデータ」「ハードウェアの向上」それから「ディープラーニング」だ。はじめの二つはわかりやすい。理解が難しいのはディープラーニングで、これは学習の仕方を覚えるしくみのことだという。ニューロンの情報伝達方法を模した「ニューラルネットワーク」がディープラーニングを支えていて、そこには「誤差逆伝播法」と呼ばれる手法が取り入れられている。誤差逆伝播法とは、簡単にいうと情報の重みづけを変えること、余分な情報をとりのぞいて重要な情報を残す、羽生さん曰く「引き算の思考」のことだ。概念としてはなんとなくわかるのだけれど、どうしてそんなことがコンピュータに可能になったのかはまだぴんとこない。間違った推論を導きだしたとして、それまでの過程の「どの」部分がエラーであり重みづけを変更すべき箇所なのか、どうやって判別しているんだろう……。それは人間でも難しいことのような気がする。

 チェスの話にはじまり、おなじみのPepperや「接待する将棋ソフト」、絵やミュージカルをつくる人工知能など、この本の中で羽生さんはさまざまな人工知能とその開発者に出逢う。人工知能をどのような存在と捉え、どのような未来を想定するかは研究者・開発者によってまちまちだ。羽生さんは棋士という立場から、人工知能の利点と現時点の限界、それを踏まえた人間の知性のありかたを考察する。それらはすべて断片的で、人工知能はこういうものだから、今後はこうすればいい、というような筋立った解説ではない。というより、そんなものは個人的意見を超えてはだれも持ちあわせていないのだろうと思う。そんななかで、羽生さんの個人的なつぶやきのいくつかはとても示唆的だった。

 実は人工知能の開発においては、「時間」の要素を取り入れることが課題になっています。(中略)

 しかし、私は、「美意識」には、「時間」が大きく関わっているように思うのです。

 例えば、棋士が将棋ソフトの手に覚える違和感。煎じ詰めると一つ一つの手は素晴らしくても、そこに秩序だった流れが感じられないことに由来しているように思います。それは、その時々の局面を一枚の静止画像と捉えて手を選び出しており、その後の局面の流れを検討していないように思えるからです。(中略)

 人間の感情も、実は「時間」が関わっている面があります。何に怒りを覚え、何に悲しみを覚えるかは、その人がそれまで生きてきた「時間」と蓄積した経験から生まれるからです。「言語」の意味を把握することにも、関係しているかもしれません。

(『人工知能の核心』第三章 p.141-144)

 私たちは脳のメカニズムや言語野(大脳皮質の言語を処理する部位)を完全に解明したわけではありません。実際のところ、人間同士で会話が成立しているように見えても、互いに考えていることを全て把握していることはないはずです。そもそも誤解や思い違い、先入見などがありつつ、それでも意思疎通を図ること——それがコミュニケーションなのではないでしょうか。私は、人間も、「中国語の部屋」にとらわれているのかもしれないと思います。

 ですから、定型化されたコミュニケーションに限定すれば、人工知能が日常的に、大いに役立つケースも想定されるのではないでしょうか。

(『人工知能の核心』第四章 p.168-169)

  前者の引用部ではなにが人間の知性を知性たらしめているか、ということが、後者の引用部では逆に、人間ならではの知的活動と思われていることが単なる反応パターンに還元されうるのではないか、ということが暗示されている。時間の感覚や言語のもつ不可能性については、現在までに哲学や心理学の分野で何度も解体と再構築がなされているけれども、人工知能の登場によってそこがよりクリアになるのかもしれない。個人的には昔から、宇宙の誕生と終焉が完全に解明されたら(生命の存在を、奇跡と偶然以外の言葉で論理的に説明することができたら)文学も芸術もいらなくなるんじゃないか、と思っていたから、これからは人工知能の開発がそれに代わって人間とはなにかを間接的に定義してくれるのかもしれないと期待してしまう。もしくはさらに開発が進んで人間のおよばない圧倒的な知性を持つようになり、『幼年期の終り』のように人類を決断の恐怖と孤独から(一時的にでも)救いだしてくれるのではないか、とか。こういう漠然としたロマンチシズムがわたしの文系たるゆえんで、甘いところなのだけれども。

 人工知能とはなにか、ということを理解するにはすこし弱いので、やはりこの本はそれらしい入門書を読んでから手に取ったほうが良いかもしれない。ただ羽生さんの視点はやはり面白く、上記の引用のような小さな気づきがたくさん鏤められているので、読みものとしてはひじょうにおすすめです。

『結婚者の手記』室生犀星/人生から鼻毛

  室生犀星は正直すぎる、と思う。金沢で私生児として生まれてすぐ養子に出され、高等小学校を中退したあとは裁判所に勤めながら詩を発表。自分の生まれの複雑さと容貌の醜さに終生コンプレックスを抱きつづけた作家、と書くとそれだけで尖った人物をイメージしそうになるけれど、実際の文章の感触はだいぶんちがう。たしかに繊細な言葉が積みかさねられてはいるものの、なんというか、全体的に、ちょっとまぬけなのだ。

 いませんか本人は真剣なんだけど傍から見てるとそっちじゃないってなる人。ばっちり髪型をきめてるのにTシャツの英語が変みたいな。全身コーディネートしてるけどそもそも季節感あってないみたいな。わたしは比較的そういう人間です。これはなにかというと「常に人生からちょっと鼻毛が出てる」人種です。どんなに立派なことを言おうと、失恋して孤独に陥ろうと、いやでもあの人鼻毛出てるよね……ってかんじで様にならない。

 室生犀星が結婚したのは二十九歳で、相手は自分の読者だった。『結婚者の手記』には、犀星が結婚をして妻と一緒に暮らすようになってからの日々が綴られている。曰くコンプレックスが強すぎて「ただ一人の清い女性をラバアに持つことができなかった」犀星の結婚に対するあこがれは強く、はじめて夫婦ふたりで買い物に出かけ、おしるこを食べるときの描写なんてムズキュンしてしょうがない。

「も一つやんなさい」

 というと妻もすきならしかった。つつましそうにおつゆを吸っているさまが、いつかの女をおもわせた。ひとが見ていると仕合せに見えるにちがいないと感じた。そとは寒かったが賑やかであった。深深と黒い毛皮の襟巻きをあたたかそうに、ほそい顎にうずめている彼女は、その私よりも一寸ほど高いせなかをすこしまげていた。やっと気がつくと帯の工合で高まっていることがわかった。男同士の荒い散歩ばかりしていた私には、こんなことまでいちいち珍らしかった。ただ、私は「何事もゆめのように」と心でいつも呟いた。

(『結婚者の手記』第一章 p.23)

  こんな毎日がいつまでも続くかと思いきや、時が経つにつれて犀星の内向性や自信のなさ、剥き身のプライドが家庭生活にもあらわれはじめる。昔の男から貰った手紙はないかと妻の留守中に引き出しをを探ったり(結局見つからなかったのだけど、それはそれでがっかりする)、犬と妻の仲がいいのに嫉妬して無理やり犬を押さえつける。猫は殴るし妻と言い合いになったら皿やら壷やら片っ端から割りはじめる。酷い。酷いとしか言いようがないのだけれども、本人は至って真剣なのだ。妻のよろこぶことをしてやろうと思い、「何事もゆめのように」ある小さな家庭を守りたいと思い、なにより妻から愛されたいと思っているのにこうなるのだ。

私が十年の暗黒的生活に、一人の恋人を見つけ得なかったのは、あまりに自分の容貌の峻酷であるためと、私自らがそれを知覚しているためであった。——私はそれらの苦しみが今たえまなく心に往来してきて、一つ一つ私の耳にささやくことをかんじた。

「僕のようなもののところへ来たお前はほんとに気の毒だ。」

と私はひとり言のように言った。妻はあわてて、

「勿体ないことを仰らないで下さいまし。わたし、もう出来るだけのことをしてあげますわ。」

 と持ち前の明るい言葉で言った。一人が暗くても一人が明るければいいのだ。

(『結婚者の手記』第一章 p.50)

  「一人が明るければいいのだ」って勝手に納得しているけれども、これは手紙を漁ったり犬に嫉妬したあとの台詞だ。妻は貧しい中で生活のやりくりをしているうえ、子どもみたいな行動にもつき合ってあげているのに、夫の頭は詩的な悩みでいっぱいいっぱい。青白い顔でお前は気の毒だとか言われても知らんがなである。これがたとえば太宰ならもっと巧く書くんじゃないかと思う。本音を組み替えて、人に見せられるていどの鬱屈だけを綺麗に見せる。だからどんなダメ男の話でも見栄えがよくって共感しやすい。それなのに犀星は真っ正直なものだから、自分のダメさを無防備に開陳しちゃうのだ。これが人生から鼻毛が出てるタイプの人間だ。この状況で奥さんがほんとうに明るいわけないって!

 そんな人間の結婚生活がどういうなりゆきを迎えるか。ラストの描写はまぬけさと美しさが共存するたいへん味わいぶかいものになっているのでぜひ読んでいただきたいのだけれども、ここまで書いておいて室生犀星が好きか嫌いかと訊かれればわたしは迷わず好きだと答える。いいじゃないちょっと鼻毛の出た人生。妻の気持ちがわからないとか、結婚生活がうまくいかないと思っている人も、犀星を読んでさまざまのことを「しょうがないなー」と反省したり笑ったりしてくれればいいと思う。

『綿の国星』大島弓子/ポエムはどこへ行ったのか

綿の国星 (第1巻) (白泉社文庫)

綿の国星 (第1巻) (白泉社文庫)

 

  大島弓子については世代がずれているからかよく知らない。ただいろいろなところで言及されて、知らないのはモグリ、みたいな扱いをされていることだけ知っている。それじたいより先に周辺の情報を嗅ぎとって、わかったような気になっているものはたくさんある。その山をすこしでも解消したくて読んでみたのだけれど、やはり前情報が入りすぎていたのか「ふつうに良いかも」というぼんやりした感想になってしまった。読むほうの年齢の問題もありそうだ。

 読みながら考えていたのは、「そういえばいまの子ってポエムとか書くんだろうか」ということだった。詩でもモノローグでもなく、ポエム。

おやすみ

なさい

時夫 二人

いっしょに

お魚の

すり身で

できた

こんぺい

とうの

お星さまと

えびいり

おこのみやきの

お月様の間を

にぼしの頭を

カリカリたべながら

飛んでゆく夢を

みられますように 

(『綿の国星』第1巻 p.30)

  これである。ポエム。

 『綿の国星』の主人公は人間になりたい猫の子ども・チビ猫(人間には赤んぼうから人間のものと、猫から変身して人間になるものの二種類があると思っている)で、女の子で、じぶんを拾ってくれた飼い主の時夫のことがすき。むじゃきで純粋だけど、気まぐれで、ちょっとわがまま。設定じたい、世界観じたいからしてほぼすべて「ポエム的なもの」で構成されている。ポエムとはなにか。大塚英志は「少女の原初的かつ私的な表現手段」と言ったけれど、それはあくまで外部からの定義であるから、『綿の国星』にただよう「ポエム的なもの」を説明するにはすこし足りない気がする。

 『綿の国星』は連作短編になっていて、それぞれに事情のちがう猫や人間が登場しては退場していく。読者はチビ猫の視点をつうじてかれらとかかわり、ひとつの町の中でうつり変わる景色をみる。チビ猫はたくさんのものを見るかわり、「見られる」ことには無頓着だ。人間の女の子のようにふるまいながら、好奇心がみちびけば牙をむいて生魚を穫ることに命を懸けるし、泥まみれにもなる。そのことで時夫や家族に叱られると拗ねるし落ちこむけれど、反省することはない。自意識がうすく、社会的な成長をしない。チビ猫はチビ猫のまま周囲とかかわり、女や母といった役割を負わない。とうぜん、学生や会社員という役割も。

わたし

ほんとに

だれにも

まけない

美しいいい猫

になれる?

 

なれるとも

保証するぜ 

(『綿の国星』第1巻 p.73)

  唯一チビ猫を雌としてみるラフィエルは、あんたは特別なんだときらびやかな未来を呈示する。ピンチのときは助けてくれる。なにも要求することなく待っていてくれる。だからチビ猫は愛情を食みながら子どものままでいられる。ここは女の子の楽園だと思う。「ポエム的なもの」は、世界にたいする好奇心を自覚してから、見られる性・客体としての自分自身に気づくまでのごくみじかいあいだにだけ存在する、幸福なかくれ家のことかもしれない。そこでは批評や共感も排除される。わたしのためだけの、わたしによる言葉。

 最近ポエムって見かけなくなったなーと思うのは必然で(ブラック企業ポエムみたいなものはあったけれど)、データベースとSNSの時代に自分だけのかくれ家をみつけることはむずかしい。大島弓子が読まれていた時代より、今の中高生のほうがずっと「見られる」ことに意識的なのだろうと思う。大学生くらいの子と話してもずいぶん醒めているというか、視点がメタ化しているのだと驚かされたりする。「ポエム」のあとに「www」をつけないと落ちつかない気持ちはわたしにもよくわかる。

 それならばやがてポエムになるはずだった彼女たちの感性というのはどこへ行ったのだろう。インスタにきらきらしたものをアップしてTwitterの裏垢で愚痴って、そういうやり取りの中に霧消しているんだろうか。感性じたいが時代と環境の産物だったのか、それともだれにもみつかることのない日記や手帳の中で、いまも2017年のチビ猫は生きているんだろうか。

『こちらあみ子』今村夏子/つながりの不全

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

  子どものことをよくみている。電車の中などで、あんまりじっくりみても不審がられるから、主には耳に意識を留めおいてそこでみる。かれらはたいてい突拍子がない。ある子どもは何事かをこわい、こわいと泣いて母親に「きらきら星」をうたってほしいとせがんでいた。母親が周りの目を気にしながらちいさくうたいはじめると、それまで怯えていたのがうそのようにまどろんだ。またある子どもは背すじをのばしたまま大声でじぶんの名前と幼稚園の名称をくりかえし、母親にたいしてすごいーすごいーと訊いたかと思うと履いていた靴をとつぜん、ぼろん、と投げた。

 子どもが大人になるのはたいへんなことだ、と思う。わたしはいままで「きらきら星」のうたを鼻水が出るまで求めたり、靴を投げとばすほどダイレクトかつ身体的にみずからの自尊心を表明する大人に出逢ったことがない。なぜなら、大人は周囲にあわせてチューニングするすべを知っているからだ。電車の中で「きらきら星」が聴きたいとおもったらiPhoneにそっとイヤホンを挿しこむし、自尊心はSNSにほんのりアップロードする程度でまぎらわす。チューニングミスが起きたときの気まずさはその場しのぎに誤魔化すか、なかったことにする。ほかの人のそれも、なかったことにしてあげる。大人のつながりは神経質な目くばせのうえに成りたっていて、かれらがそうなるまでのあいだ、身のうえに起きるだろう痛みの多さを思うと気が遠くなる。周囲にあわせることを学ぶのは、親のためでも社会のためでもなく、流れに逆らってじぶんの身が傷つくのを避けるためだ。

 『こちらあみ子』に出てくるあみ子には痛みがわからない。じぶんの身に痛みが起こってもそれを痛いとか、つらいと感じることがない(予感することはあっても)。だからあみ子は「大人」になれない。

「もうちょいで消えそうなんじゃけどねえ」あきらめきれなくて、あみ子は腕に力をこめて傷を何度もこすり続けた。小学一年生のあみ子に読むことができたのは自分の名前の部分だけで、その下、馬鹿という字は読めなかった。父に訊いてみたけれど、父も指先で自分のメガネをずり上げながら、「さあわからん」と言っていた。 (『こちらあみ子』p.16) 

 小学一年生の時点では未だかわいらしく思えるあみ子の特性も、周囲が成長するにしたがって不穏さを帯びる。

「ストップ! それ田中先輩の妹だって」

 その一声で、あみ子を囲む女の子たちの足の動きがとまった。蹴るのをやめて、急にやさしい声をだした。「ごめんね、違うんよ」「知らんかったんよ」「全然似てないんですね」「痛かった? 痛くはなかったじゃろ。そんなに痛くはなかったじゃろ」うん、と頷くと、「田中先輩に言わんといてね」と言いながら、全員が小さく手を振りながら走り去って行った。 (『こちらあみ子』p.64)

 「ばか。しっかりせえよ。ええか、去年まではおまえのアニキにびびって、みんな遠慮しとったけど、アニキおらんかったら、おまえなんか指でプチッてやられて終わりよ。あんまり学校こんし、きたと思ったらくさいし。まじで、いつか、絶対やられる。いやじゃろ」

「ああ」 (『こちらあみ子』p.73)

  周囲が痛いだろう、いやだろうと思うこともあみ子には平気だ。そのかわり、あみ子がいやだ、こわいと思うことはだれにもわかってもらえない。三歳の子どもが見えないものをこわいと言えば「きらきら星」をうたってくれる大人はいる。七歳ならしっかりしなさいと叱られるかもしれない。でも十五歳になるとだれも相手をしなくなる。三十歳なら遠巻きにやさしくされてしまうんじゃないか。想像することはできても、それがなぜなのか理屈で説明することはむずかしい。周囲とちがう感性をもつのは悪いことではない。けど不都合だ。善悪に理屈をつけることはできるけれど、不都合さに至る筋みちはそれよりずっと複雑に入り組んでいる。

 痛みの感性がひととちがうということは、ひとの痛みがわからない、ということでもある。あみ子の不都合な言動に周囲の人間は困惑し、傷ついてつき放す。そうしないとじぶんを守ることができないからだ。暴力にうったえること、気持ち悪いという言葉をつかうことは批判されるべき行為とされているし、実際そのとおりなのだけれど、この小説にはそうすることでしか生きのびられないゆき詰まりまで書かれている。はじめから他人を傷つけたいと思う人間は多くない。でも話しあいで問題の根本が解決することなんてほとんどない。やさしさは、往々にして余裕からしか生まれない。

「好きじゃ」

「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。

「好きじゃ」

「殺す」のり君がもう一度言った。

「好きじゃ」

「殺す」

「のり君好きじゃ」

「殺す」は、全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。(『こちらあみ子』p.102-103)

  それなりに大人として生きている人びとが恋愛や家族関係に悩むのは、親密さのなかでついチューニングが緩んでしまうからじゃないかと思う。相手の都合や空気を読む以上に、伝えたい、わかってほしいと思うじぶんの気持ちに直面したとき、たいていの人は大人でいられなくなる。命中しない言葉をぶつけ、わかりあえると思っていた痛みが結局じぶんのものでしかないことを知ったりする。あみ子は「かわった子」ではあるけれど、大人も、大人になりかけている子どももみんな、ほんとうは「かわった子」なのだ。その事実をさらけ出して孤独になるのがおそろしいから、涼しい顔をして満員電車に乗ってみるなどしているのだ。『こちらあみ子』はそういう、ふつうの大人が目をそむけてなかったことにしているおそろしさについての話だ。文庫の背表紙には「純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視点で鮮やかに描き」なんて書いてあるけれど、梗概からイメージされる(大人にとって都合のいい)鮮やかさなんてどこにもない。

 これがデビュー作、かつ三島賞受賞という今村夏子のすさまじさは、テーマの選択のしかた、表現のしかたよりも、そうしたことをいっさい企図せず書けてしまっているところのように思う。じぶんの感性を信じるあまり周囲から遠ざけられる子ども、なんて、うっかりするといくらでもいやらしくなる。あみ子に大人の思う純粋さを仮託させてしまう。でも今村夏子はそうしない。あみ子がそこにいて、考えて、生きているそのことだけを書く。文庫版に収録されている他の二篇『ピクニック』『チズさん』においてもその手つきは一貫している。いままでにいなかった作家だと思う(作家的資質と相反するものをもっていないと、こんなものは書けない気がする)。

星の子

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